「平成狸合戦ぽんぽこ」あらすじと感想。裏話あり。

「平成狸合戦ぽんぽこ」は、1994年公開、原作・監督・脚本は高畑勲監督による、スタジオジブリ製作の長編アニメーションです。

昭和40年代に始まった、多摩丘陵における初期の多摩ニュータウン建設と開発による山林の破壊に対し、その地に暮らしていた狸たちのヒトへの化学(ばけがく)を用いた抵抗を描いた作品です。

声の出演に、当時のベテラン俳優や落語家が多く出演しており、25年たった今、声を聴くと誰だったろうと、はっとするような特徴のある作品です。

「平成狸合戦ぽんぽこ」の感想

平成狸合戦ぽんぽこ

化学(ばけがく)とはよく言ったものだ…。

公開当時、この作品を観た時、狸の化学(ばけがく)とは、よく言ったものだと、とても感心した記憶があります。
そして面白かったです。

特に、古狸から化学(ばけがく)を学び、街頭実習をしはじめるシーンは興味深いです。

化けていることが消耗が激しく、「狸隈(タヌキクマ)」が出て失神または正体を現す前に、スタミナドリンクを飲むシーンなど、最初にこの映画を観た時はまだ若かったため、本当に人間に紛れて生活している狸の妖怪がいると信じかけたくらいです。

公開当時、この作品を観た人のレビューに、狸が神社の白狐に化けて人を脅すシーンの動きがリアルで凄いと語っていたことを思い出します。

数十年後に再び見直してみると、化学に関する民俗学的な伝承や、宗教的な要素もチラッと伺われ、なかなか深いアニメだったのだと感心しました。

タイトルバックにある、マンダラに狸と狐と猫が描かれ、化学を講じるシーンなど本当に興味深く愉快です。

「百鬼夜行」は、昭和40年代の当時ですら住民が理解に乏しく、イベント?と、描かれるくらいですから、現在の目から見るとこのアニメ映画そのものが民俗学的に大切な資料とすら思えてしまうほどです。

しかしところが、今でも四国の夜の山道で、この映画中に出てくる大きな達磨の妖怪に、数秒ならともかく、5分も10分も正気の中一緒に走ることになってしまい、アニメの世界の話ではない事がわかったという、真偽不明の不思議体験の話も見かけるなど、日本の地方にはまだまだ謎が多く残されているみたいです。

最近も、都会の雑踏に紛れた化け狐もいるかも?というような話も真偽不明ですが見かけ、アニメだからと言って馬鹿にできないと思うことがあります。

スタジオジブリ作品として異色

「平成狸合戦ぽんぽこ」は、「紅の豚」の後、「もののけ姫」の前に位置する異色な作品です。

宮崎駿監督が、豚の後だから狸にしよう!と企画したとのこと。

高畑勲監督作品だからなのか、何なのか、スタジオジブリ製作の映画の中でも異色な雰囲気の物に出来上がっています。

日本の古い民俗学的な伝承をベースとしているためか、他の作品の方が洋風または神道的なものに感じられます。

最近でも、たまに山岳信仰を取り上げた仮装通貨を取り上げたドラマなどもありましたが、共通するのは昔も今も変わらないくらい、山奥の神秘が存在するという事でした。

多摩丘陵はそこまで山奥の話ではなく、人の生活圏との境界ともいうべき土地でしたが、このような話が娯楽アニメではない地方がいまだ現存するのかと思わずにはいられません。

また、百鬼夜行作戦に失敗後、化けられない狸たちを集めて極楽浄土目指し、宝船に化けた長老に連れられ入水した狸たちなや、狸と人間との戦いでお互いが事故死者が出ることなど、さりげなく死が描かれている点もリアルさが珍しいです。

狸としても、日本として観ても切ない所

「平成狸合戦ぽんぽこ」には、昭和を代表する政治家や、日本とアメリカの関係が仄めかされているという点に関しては、指摘されてそう考えてみればとそのように思える位で深い意味は感じず、むしろ純粋に人間と山の狸たちの切ないお話に思えました。

しいて言えば、四国から3人の古老が登場した時は、金満でイケイケの今時の老人なのですが、やっていることは凄く古風で無力。

太平洋戦争時の日本とアメリカを風刺したといえば、そのようにも見ることができます。

終盤で、山の妖怪を取材に来たTVのレポーター達を前に、狸たちが陳腐な昔の蕎麦屋の前に置いてあった焼き物の置物等に化けながら、必死に人間の言葉で自分達の思いを伝えようとします。

「おら達が…、山が…」と、いかにもあか抜けない江戸時代の山奥の農民風、化けて出てくる時は饒舌で変化自在ながら、いざ対面して話そうとすると思うように言葉にならず、動物のようになってしまうのがもどかしい限りです。

狸たちの最後の手段、古き良き人と狸たちが共存していたかつての田園風景を化かして再現したところ、それを見た住宅に住む人々が、母親や幼友達の姿を見つけて家から飛び出して駆け下りていくという、なんとも切ないシーンが印象的です。

ただし、人間を化かしていたはずの狸たちもその光景に騙されてしまいます。

狸たちが、自身の幼い日の姿に走りよると、集合住宅のベランダ脇の崖だった…。

人間目線で狸が狸にしか見えないシーンは、狸としても、人間としても観ても切ないところです。

こうした田園風景は、昭和初期の頃はいたるところにまだ残されており、私の母などは、ジブリの別の作品「となりのトトロ」を見て懐かしいと涙ぐむほど郷愁を感じる風景のようです。

人間になった正吉が手にしていた紙袋

主人公の正吉はサラリーマンとして通勤電車に耐えながら、ある日の夜、近所の公園(またはゴルフコース)で月夜の踊りで集まる仲間達に出会います。

人間の姿で一心不乱に、草むらの中をよつんばいで慣れた様子で進む正吉です。

この後、この映画で最も有名なナレーションが流れ、観客をクスリと笑わせてエンディングとなります。

ところで最後に、人間になった正吉が帰宅途中手にしていた紙袋は何だったのかと、知人に聞かれた際に全くそのような光景があったことを忘れていたことに気付き、最近観なおしたところ、そういえば、製作者側からの説明がかつてあったようなことを思い出しました。

昭和初期くらいは高度成長期で残業も多かったサラリーマンのお父さんが飲んで深夜帰宅時、妻子のご機嫌を取るために手に持っていた手土産の名残とも、若いサラリーマンのバッグ代わりとも言っていたような…。

自分は全く気にしなかったのでしたが、気になる人には物凄く気になるシーンのようでした。

正吉が踊っている仲間たちに加わる時、狐が化けるときのようなイメージで、木の葉を頭に載せるように、紙袋を載せていたからでしょうか!?

やはり奥が深いです。

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